2014年01月03日

毛利家取材。萩市でのレポ

12月30日より4泊5日。吉田松陰関連で来ているですが、
毛利家が地元なので、戦国関連としてレポします。

まずはお城から。
萩市の西北部にある指月(しずき)公園。萩城跡にあります。

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地元ではあまり目立った存在ではなく、観光名所の中のひとつだけです。
これは仕方が無く、それだけ町が魅力的であり、幕末の方で、戦国よりもハッキリしており、
毛利家はあくまでもその程度なのです。

毛利家取材。萩市でのレポ

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本丸から始まり、城下町としての三の丸までありますが、
城周辺の本丸は天守閣の残存が見れる程度です。

戦国好きはある程度、見るべき所がわかりますが、一般の方はわかりませんね。

毛利家取材。萩市でのレポ

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もともと、関ヶ原で敗れた西軍の将です。
長門と周防の2ヶ国の本拠地として萩がメインとなりました。
そのため、戦う城ではなく、城下町としての城なのです。

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こちらは近くにある萩博物館にある模型。
本来であれば山城なのですが、それでは徳川幕府に反旗を翻す事になるため、
上の部分はあくまでも見晴らし台なのです。

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本来であれば、天下の水城として名をはせるのですが、
そんな事になれば、徳川幕府を敵に回す事になりますからね。

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萩博物館には、毛利家の貴重な品があります。
基本は幕末関連がメインなのですが、毛利家は初代の元就から数え、3代から12代までの期間。
この萩で過ごしましたので、その中身は濃いのです。

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しっかりと、毛利家の家紋があります。
こんな形で鎧もありますが、基本は墓所がメインとなります。

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本丸近くの天樹院跡。おなじみに毛利輝元さんと妻の方。
関ヶ原では総大将ですからね。
戦国ファンなら、知っている人であり、しかも今回の黒田官兵衛では、関連性は高いです。

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まずは墓所である東光寺。
毛利家の菩提寺です。
元就から数えて「奇数」の藩主と夫人が祭られています。

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どこの藩主の場所もそうですが、かなり「変わっています」。
今回の毛利家も財力がある分だけ変です。

戦国時代から江戸時代にかけて、墓所は今の時代と違い、
全てオリジナルの芸術品なのですよね。

前の八重の桜においても、会津若松市にある松平家墓所もかなり変わっている。
今回も毛利家も負けず劣らず変わっていました。

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こちらは天照院。
偶数の毛利家の藩主と夫人です。
あちらが石灯篭の500基なんですが、こちらは600基。
基本は輝元さんの3代からメインではなく、4代からメインですからね。

毛利家取材。萩市でのレポ

4代藩主がこちらで、別扱い。さすがです。
その他はこちらで、最後の12代が、4代と対となっている対比型になっています。

毛利家取材。萩市でのレポ

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さて、最後に城下町。
基本は今ではこちらの方が観光名所であり、幕末関連で言えば、
吉田松陰や高杉晋作、木戸孝允などがメインですから。

また、街並みは萩博物館の方が言っていましたが、見事に残されているとのこと。
理由は毛利家の本拠なのですが、明治以降の山口県の県庁所在地にならなかったことなのです。

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こちらは三の丸までの城下町の絵図です。
これがそのまま残っているのです。
県庁所在地にならなかったおかげで、そのまま保存されているのです。

このため、全国で戦国や幕末関連の「映像関連の撮影」はほぼ、この萩にて行うそうです。
ロケーションとしては最高な場所なのです。
ですから京都について、隠れた観光場所になっているため、城下町がメインとなります。

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また、更には、萩市からは4人の総理大臣を輩出している場所なのです。
伊藤博文・山県有朋・桂太郎・田中義一。
これでけいるのですから、それは栄えるでしょうね。

毛利家関連では、軍師官兵衛としては、無関係ではないですので、
取材レポとして投稿しておきます。



Posted by 黒田官兵衛考高 at 03:38 │1月