2014年07月28日

軍師官兵衛。第31回感想妄想「天下人への道」

生放送を見ないで済むという心地よさを1度でも味わうと、
もう抜け出せない。
感想が妄想でもいいや!となる瞬間です。

もし、ネットで無料の再放送が可能となると、空いている時間に見る可能性はあるが、
ネット後進国になっている日本では既得権益がありダメなんでしょうね。

中国ではネットが一般化しているのでPPTVのような放送とネットの融合があたりまで、
普通になっている。発展途上国の方が既得権益がない分だけ理にかなう仕様が
一般化する現象です。
既得権益側であるNHK。そして視聴率という古ぼけた権益である電通。
それを束ねる天下り先を維持したい総務省。
妄想も数十年続く予感です。




政治家秀吉と軍師の関係

天下人への道を歩む過程において、今の秀吉は大きく変貌をしている。
営業部長取締役から社長へ

こうした関係があるから、軍師も優秀な部下の立場から、会社の一部の「部品」となる過程がある。
黒田官兵衛も、こうした組織変革における立場の違いを、優秀であるが故に感じていたであろう。

特に政治家としての秀吉の立ち位置は、部下といえども「ライバル」になる可能性がある官兵衛。
御舎弟の秀長のような関係があれば良いのですが、秀長のような補佐役に徹する事が出来ない
古参幹部である蜂須賀小六や黒田官兵衛は、疎まれ始めるのは当然の帰結であろう。

この当時、もし竹中半兵衛が生きていれば、漢の高祖の劉邦に仕えた張良と同じく、
世俗と関わる事なく、粛清される前に世捨て人になっていた可能性がある。

竹中半兵衛は、薄命であるが故に、その夢を秀吉に託したのであるが、軍師官兵衛は、
半兵衛のような世捨て人になるような野望ゼロではない人であるが故、政治家秀吉に警戒され、
結果、清州会議以降、「政治家黒田官兵衛」の登場を抹殺した感じがある。






下剋上を許さなかった秀吉

天下泰平の世を作り出した徳川家康。
その前に天下人になった豊臣政権。

その豊臣政権下における軍師官兵衛の位置。
それは一番の犠牲者として、天下人への布石を一番貢献した人材であるが故、見せしめとして、功績をあえて
少なくし、どんなに優秀でも下剋上を許さなかった秀吉の方針がある。

秀吉ほど、黒田官兵衛の力量と才覚を知る者はいない。
それであるが故、清州会議でなお、鬼才・鬼謀を駆使する官兵衛の英知に、恐ろしいほどの「警戒心」を、
植え付けさせた官兵衛の「失策」である。

秀吉が清州会議で、単なる営業部長取締役から、社長へと変貌しているのに、未だに部下として扱うであろうと、
古い郷愁愛に慕っていた官兵衛の失策である。





宰相石田三成と軍師官兵衛

大河ドラマ天地人で放送されたように、上杉家では軍師直江兼続が、宰相へと変貌するのが良くわかる。
己の才能を戦いの場から、政治家への立場へと変化させた
それ故に、組織変革を自ら行い、組織による上杉家の将来像を強く描いた

豊臣政権下において、その役割を本来なら黒田官兵衛がしなければいけなかった。
特に清州会議において、鬼才・鬼謀を駆使するのではなく、豊臣政権の樹立を構想するのが官兵衛の役割である。


しかし、こうした地味で裏方の役目を、名補佐役の羽柴秀長がいて、英才で野望家で自信家である官兵衛には、
宰相としての「器」が欠けていたのは事実かもしれない。

それ故に、まだまだ下の立場であった石田三成の登場を許した感じがあり、豊臣政権の構想力が欠けていた官兵衛は、
官僚主導型の組織体制を描くことができる三成に、大きさ差を、この清州会議以降、どんどん広がり、現場から、
遠ざけられるようになっていく。

もし、秀吉の子が成長した場合、石田三成は名宰相として名を残し、黒田官兵衛は、蜂須賀小六のような軍師級程度の
時代遅れの人材として見られていた可能性がある。

Posted by 黒田官兵衛考高 at 02:29 │7月